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インスピレーション

ルネッサンスのころはたくさんの才能ある野心家が

才能を争っていた。その源はインスピレーション。

作品の中にはそのインスピレーションがちりばめられている。

作品とは、本当はまさに「音の宝の箱」なのです。

歌っていると ときどき その作曲家の

楽譜になる前の「おと」を感覚する。

楽譜には書いていない「色」、「感情 」、『響き』

そして「歌うときの息使い 」。

指揮者にはわからない、

歌詞とそれを導く旋律から

歌っているときに感じる

 感覚「インスピレーション」がそこにあるのです。

 

 

 

 

 

 


合唱のテノールとソリストのテノール

「すべての音の調和を持って一となす」と誰かが言っていた。

合唱のテノールは4声の調和を持って一となす が、

ソリストは違う。

自分ひとりの声とそれ以外の音の調和を持って一となす。

 声の出し方から、ホールを響かせる技術も 演出も

似てる けれど違う。

だから それぞれが行き着く境地も たぶん違う。

ソリストには 合唱のテノールの

本番の中で 4声の中にあって

自分たちの音をどんな色で どのくらいの音量で出したら

4声で混ざったときに こんな色になるという計算の元に

声を出していることを知る由もないだろう。

そこまでできなければ私の目指すテノールではないのだ。

 

 

 

 

 

 


綺麗な歌声を保つには

きれいな歌声や音程を保つには、

やはりタバコやお酒は控えたほうがいい

タバコは「声帯の高音部分」を確実に死滅させる

お酒は「自分が出している音」自体をわからなくさせて

音程が下がり、不安定になるから。

そして 毎日 歩いたり、走ったりなど適度の全身運動をすること

ちなみに「らじお体操」も本当にまじめに2,3回 取り組めば

全身運動になる。


曲にあわせて 歌詞を分解する

一生懸命 歌っていても 

なかなか「ことば」が伝わらないことがよくある

それは 曲と歌詞が合っていないからだ

ラテン語やえいごなど 

日本以外の語を歌うときによくある

これは 普段話すときのイントネーションと

歌うときのイントネーションが多少異なるからだ

わたしは1曲ごとの起承転結を大事にし

曲の流れの上に 歌詞を乗せていくため

歌詞を1度 分解する

単語のアクセントはそのままに

曲の起伏に合った イントネーションを組み立てなおす

そうすることで 以外に 伝わらなかった歌詞が

自然に人々の心に伝わるようになる

 

 

 


私はほかの合唱団の演奏会には行かない

私が30代のころまでは、東混(東京混声)など、

名の知れた合唱団を聞きにいって、よいところを盗もうとしていた。

だがしかし、所詮、同じ人間のすること。

唯一無二の演奏よりも、見本的な演奏のなんと多いことか。

いつも同じ歌い方の合唱団のなんと多いことか。

私は曲によって、西洋ものなら西洋っぽく、日本ものなら日本っぽく

発声を変えて、オケ(オーケストラ)のように

この曲の この部分は この人とこの人とこの人だけ 歌うように

というように いろいろなことやったほうが

 練習を含めた 効率のよい

より現代的な演奏になると思う。

 


ランランのピアノは22世紀

ピアニスト ランランの演奏は22世紀の演奏だ。次元が違う

ユーチューブで彼の チャイコの piano concert1 を見てください。

「彼の顔と指運び」と オケの融合の仕方が

まるで「のだめカンタービレ」の 「えいが」を見ている感覚で楽しめる。

これは「クラシックおんがく」であって、「クラシック」ではない。

 まさに 「おんがく」を今、体験している 感じなのだ。

しかも 各フレーズの美しさがよくわかるように

一つ一つ とても彼なりに ていねいに演奏している。

ぜひ1度、いや2,3度体験してはどうか。

 

 

 


音楽も暮らしも時計とともに

いにしえの「おんがく」はもっとゆったりと流れていたように思われる。

それが「とけい」の発明とともに生活も「おんがく」もテンポが速くなってしまった。

ルネッサンスやそれ以前のおんがくはもっとゆったりと演奏されていたはずだから、

「こんくーる」でそれらの演奏の時間が決まっているのは、本当はおかしいのだ。

とけいの発明は人の生活も心もかえてしまった。

現代のPCやケイタイのように。

 

 


サントリーホール30周年おめでとうございます

六本木のホールが30周年を迎えた。

学生時代、自分の好きな海外の演奏家がやってくると

音楽好きの友人と必ず 六本木のホールに聞きに行きました。

マリー・クレール・アランのパイプオルガンの演奏は

そこにバッハがいるかのような錯覚を起こさせた。

それほど圧倒的な存在感を感じ、

目を閉じると、曲ごとに様々な映像が見えてきた。

 クラウドィオ・アバドとべるりんフィルのベートーヴェン・チクルスや

内田光子さんのモーツアルト・ピアノコンチェルト・チクルスも拝聴しました。

 げいじゅつ、スポーツ、おんがく、すべてにおいて

やはり若いときに一流と呼ばれているものにある程度接していかないと、

次に自分がそれをやっていくときに

自分の中に高い基準が設定されないと 私は思います。